新たに3つの文化財を吉野川市指定文化財に指定しました

公開日 2023年02月22日

吉野川市教育委員会は、令和5年2月22日付で、新たに3つの文化財を吉野川市指定文化財に指定しました。

吉野川市有形文化財(古文書) 御蔵御拝知田畠高物成帳

2023(令和5)年2月22日指定 吉野川市山川町山路 個人

御蔵御拝知田畠高物成帳

天保7年8年米麦殊之外高値之覚

天保7年米麦相場殊の外高値

葉藍上々に而弐のがえ 天保8年春大坂中大金持ち不残打つぶる 大塩平八郎の乱

葉藍相場上々・大塩平八郎の乱

大水 居宅西よりほれ込壱丈程あな明 夜明けに東見及び候所不残ながれ川原に相成 水害で屋号が川崎屋になった

吉野川大水

川成 掘れて大砂入りに成る

川成地 掘れて大砂入りに成る

讃州金比羅様高燈籠立事丸亀道 堺住吉様燈籠同断也 石灯籠は勢見金比羅様 大坂積藍玉壱丸に壱分宛 日本一 

讃州金比羅様高燈籠 勢見金比羅様石燈籠

嘉永7年11月4日5日大ゆり 大地震 安政の南海地震 村中不残外に小屋かけ仕候寝ること 22件の被害が記される

嘉永7年11月大地震 安政の南海地震

安政南海地震 徳島御城下大ゆり 内町大火事地震大浪 小松島大火事 大浪引込 ゆき きき浦 皆引込よし

安政南海地震 徳島城下大ゆり大火事・小松島大火事 大浪(津波)

嘉永5年6月 高越大権現様こもり雨乞い

嘉永5年6月高越大権現様こもり雨乞い

嘉永4年春 土肥春艸先生植疱瘡 大殿様より御下知誠に人数何百人植る

土肥春艸先生植疱瘡

天保11年 徳島勢見金比羅様に石燈籠出来仕候 大坂へ藍玉積出俵に壱分懸かりに而立る事 日本一

天保11年徳島勢見金比羅様に石燈籠出来 大坂へ藍玉積出俵壱分懸かりに立つ

天保5年 金勝寺様 七条けさ大坂京都に買いに行く 天保11年金勝寺くり立て直し玄関建てかえ

天保5年金勝寺七条けさ大坂京都に買いに行く 天保11年金勝寺くり立て直し、玄関建てかえ

嘉永4年春勢見金比羅様高石がけの上に絵馬堂立 おやま茶屋出来仕候 藍玉殊の外高値に相成候

嘉永4年春勢見金比羅様高石がけの上に絵馬堂建つ おやま茶屋でき 藍玉は値がたいへんよくなってきた

 通称、丹兵衛日記と呼ばれており、通い帳式の古記録である。表紙には「御蔵 御拝知 田畠高物成帳」と墨書きしてあったようだが、かなり摩滅している。瀬詰村に住む丹兵衛は、2代前に庄屋の上田喜三兵衛家から分家した百姓である。当初は、この帳を田畠高物成帳として使用するために作成したが、相続く吉野川の洪水のために、田畠(畑)を荒らされ、それの復旧状況を書くうちに、世間の出来事、家のよろこび事などを書き加え、日記風に記していったものである。
 天保7,8(1836,37)年米麦殊之外高値(天保の大飢饉)、藍の取引相場、大塩平八郎の乱、御巡見御奉行のこと、享和元(1801)年吉野川の大水、年貢の減免、嘉永6(1853)年の大ひでり、田畑の復旧開墾、嘉永7(1854)年大地震(安政南海地震)、地券、鳥居の地つき音頭、徳島勢見の金毘羅に日本一の高さの石燈籠と讃州金毘羅に日本一の高さの高燈籠が立ったこと、金毘羅まいり、地元の寺社のこと、植疱瘡、高越山での雨ごい、建築の造用、人夫賃、こどもの弓明け、初着、大福嫁、養子のこと、嫁初めて来ること、作物のしつけ方(種のまき方)等々、筆のおこしに目を通しても丹兵衛でなければ、書けないと思う数々のものがある。
 打ち続く災害にもめげず、感謝の念をもって復旧にあたっていた丹兵衛の人柄がしのばれるとともに、この吉野川とともに生きてきた百姓、丹兵衛と対話をかわしているごとく感じられるものである。
 庄屋、五人組の村役人や僧侶、武士、学者の書いたものは、いろいろ残っているが、百姓が書いたものは県下にもあまりなく、全国的にも珍しい古文書である。昔の厳しい労働の余暇に丹兵衛ほど丹念に書き綴っていた百姓は少ないのではないかと思われる。
 また、丹兵衛は金毘羅のこと、神社仏閣のことなどを多く記しているところをみると、大の金毘羅信者であり、また神仏の信仰者であったと思われる。
 当時の瀬詰村のできごとや自然災害・文化・風習の他、天保の大飢饉時の米麦藍の取引相場、徳島市勢見の金刀比羅神社に大坂売りの藍商が藍玉1俵出荷するごとに1分ずつかけた資金で石燈籠を建立したことや香川県琴平町の金刀比羅宮に高灯籠が建立されたことなど現代まで伝わっている文化財のほか、徳島藩でも天然痘の予防接種が始まったこと、大坂で起きた大塩平八郎の乱や安政南海地震の徳島県内の被害状況など日本史上の重大な出来事まで記録されており、後世に残すべき大変貴重な史料である。

吉野川市有形文化財(古文書) 喜来村全図

2023(令和5)年2月22日指定 吉野川市鴨島町鴨島115番地1(吉野川市教育委員会) 吉野川市

喜来村全図

喜来村全図 表紙

 西尾村敷地地区で藍師兼藍商人として活躍した、須見家(【∧角:やまかく】須見千次郎氏(衆議院議員))が所有していた喜来村の全図である。
 須見家所有の藍畑を管理するために使用していた地図であり、須見家が所有していた土地は、赤色長方形■の印で塗られている。縮尺が1600分の1の実測図である。大きさは縦77cm、横106cmで、和紙に黒色で地番や土地の区画を、凡例に則って、郡界線が黒太カギ線、村界線が黒太線、字界線が黒破線、筆界線が黒細線、道が赤線、河川、川原、川成地、堤、社地、寺、墓地が地目ごとに色づけされている。また、現在と同様の地番が記載されている。
 江川南岸堤防(番外地番、明治5(1872)年に藍商人の川真田市太郎氏【本万]:本カネマン】(衆議院議員)が提唱し、徳島刑務所の囚人を動員して川島町~牛島村まで築堤、旧11ヶ町村を守る)が記載されているが、江川の川原を埋め立てて造成した甲地番(南岸)・乙地番(北岸)(昭和21(1946)年7月登記:現在の吉野川高校付近)が記載されていない。
 江川の北側と東側上部に、麻植郡と阿波郡の郡界線が引かれている。当時の知恵島は阿波郡に属し、昭和32(1957)年に鴨島町に編入されるまで、阿波郡柿島村大字知恵島であった。
 喜来村は、明治22(1889)年の市町村制発足時には鴨島村に含まれ、鴨島村大字喜来となっている。
 明治32(1899)年に開通した徳島鉄道(鴨島-徳島間)が記載されていない。
 以上のことから、明治5~22(1872~89)年までに作成された地図であると推定される。
 かつては藍商人が広大な土地を所有し藍畑が広がっていた時代から、養蚕・製糸業に転換していき、世界遺産富岡製糸場を経営していた片倉製糸紡績工業(株)の巨大な工場が立地し、その後衰退撤退。現在は市街化区域となり開発が進み、住宅団地となったこの地域の、かつての土地利用の変遷を知る上で貴重な資料である。
 その後、須見家より鴨島町役場に寄贈され、現在は吉野川市教育委員会生涯学習課で保管している。

吉野川市有形文化財(歴史資料) 曽我廼家五九郎直筆の書

2023(令和5)年2月22日指定 吉野川市鴨島町鴨島696番地14(吉野川市文化研修センター) 吉野川市

              吉野川市鴨島町鴨島甲1番地1(吉野川市鴨島公民館) 吉野川市

郷土

ノンキナトウサン自画像

 鴨島町上下島出身で、明治から昭和初期にかけて東京浅草で活躍した喜劇俳優、曽我廼家五九郎が故郷に贈るために昭和6(1931)年春に揮毫した直筆の書「郷土」の他、映画や演劇で有名となった「ノンキナトウサン」役の自画像である。書には全て五九郎の名が墨書きされ同じ落款印が押印されている。
 曽我廼家五九郎(1876~1940、本名:武智故平)は、明治9(1876)年4月13日に藍農家の父武智亀之助と母宮子の長男として生まれた。武智家は明治21(1888)年の吉野川大洪水で家が流され全財産を失い、親たちは北海道に移住した。少年時代は政治家になるのが夢で、明治23(1890)年14歳の時に上京し自由民権運動の板垣退助に入門して壮士仲間にも入り、舞台から運動を庶民に広めようと一座に加わった。明治35(1902)年、大阪に行き曽我廼家五郎十郎一座に参加し、喜劇俳優となる。明治43(1910)年9月、再度上京し、浅草六区の金龍館で曽我廼家五九郎として旗をあげ、喜劇俳優としての地位をかため人気を博した。五九郎の演ずる喜劇は社会悪を嫌い、これを風刺し観客の共感を呼び、常に涙と笑いを誘った。大正末期、映画や演劇で有名となった「ノンキナトウサン」の主役となって全国的喝采を博した。日本演劇史上に小さな体格で大きな足跡を残したと言われている。徳島の稲荷座で興業のおり、故郷に帰り上下島八幡神社の玉垣を親の名で寄進しており、北側入り口の玉垣には両親の名が刻まれている。昭和1 5(1940)年7月7日、64歳の生涯を病のため終えた。
 「郷土」の書は、稲荷座興業の際に、当時、旧制麻植中学校(現川島高校)の教師をしていた川真田郁夫氏(元鴨島町長)の依頼により書いていただいたもので、後に川真田氏が町長となり町役場に掲示していた。
 昭和46(1971)年5月に、曽我廼家五九郎建碑会が組織され、鴨島駅前に「ノンキナトウサンの碑」が建立された。この石碑に刻まれている「郷土」の文字は、五九郎直筆の書から写刻したものである。また、東京浅草公園にも昭和38(1963)年にノンキナトウサンの碑が建立されている。 
 昭和47(1972)年6月29、30日に第1回目の五九郎市(後の五九郎まつり)が開催され、五九郎の至芸を讃え、33回忌法要を行ったのを記念して始まった。五九郎の徳を讃えると共に日々「ごくろうさん」と人々に感謝の気持ちを伝えようという運動として行われている。
 昭和53(1978)年には、町民みんなが楽しく歌い踊る中に、ふるさとづくりの心情と意欲の盛り上がりを図るために、鴨島町教育委員会が五九郎音頭を選定し、演歌歌手大川栄策氏の歌唱によるレコードも制作され、五九郎まつりでは鴨島町婦人会による五九郎音頭が披露されるようになり、まつりに花を添えている。

お問い合わせ

教育委員会 生涯学習課
TEL:0883-22-2271
FAX:0883-22-2270
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