吉野川市の日本遺産

公開日 2021年07月16日

日本遺産

吉野川市には「四国遍路」、「藍のふるさと阿波」をテーマとした2つのストーリーが日本遺産に認定されております。

2つの日本遺産構成自治体と連携して、構成文化財を魅力ある地域資源として観光や交流促進等に最大限に活用することにより、地方創生につなげる取り組みを進めていきます。

 


 

四国遍路 ~回遊型巡礼路と独自の巡礼文化~

 弘法大師空海ゆかりの札所を巡る四国遍路は、阿波・土佐・伊予・讃岐の四国を全周する全長1400キロにも及ぶ我が国を代表する壮大な回遊型巡礼路であり、札所への巡礼が1200年を超えて継承され、今なお人々により継続的に行われている。
 四国の険しい山道や長い石段、のどかな田園地帯、波静かな海辺や最果ての岬を「お遍路さん」が行き交う風景は、四国路の風物詩となっている。
 キリスト教やイスラム教などに見られる「往復型」の聖地巡礼とは異なり、国籍や宗教・宗派を超えて誰もがお遍路さんとなり、地域住民の温かい「お接待」を受けながら、供養や修行のため、救いや癒しなどを求めて弘法大師の足跡を辿る四国遍路は、自分と向き合う「心の旅」であり、世界でも類を見ない巡礼文化である。

 

四国遍路日本遺産協議会公式ウエブサイト
 

四国霊場第11番札所藤井寺

 境内には弘法大師お手植えと言われる五色に咲くフジで有名で、寺名の由来となっています。本尊は明治44年に国の重要文化財に指定された「木造釈迦如来坐像」です。ここから第12番札所焼山寺への遍路道は四国霊場88カ所の中でも唯一、1200年前に弘法大師が歩いた時のままの自然が残っている「最後まで残った空海の道」として大切に保存されています。

 

第11番札所藤井寺藤井寺木造釈迦如来坐像最後まで残った空海の道ウォーク

空海の道ウォーク焼山寺道空海の道ウォーク川島潜水橋

 

 

 


 

藍のふるさと阿波 ~日本中を染め上げた至高の青を訪ねて~

 古くから日本人の生活に深くかかわり、神秘的なブルーといわれた「藍」。
 徳島県の北部を雄大に流れる吉野川の流域は、藍染料の日本一の産地です。
 この地域の平野部に見られる高い石垣と白壁の建物に囲まれた豪農屋敷や脇町の豪華な「うだつ」があがる町並み、「阿波おどり」のリズムからは藍染料の流通を担い、全国を雄飛した藍商人のかつての栄華をうかがい知ることができます。
 この地域では、今も藍染料が伝統的な技法で生み出されており、その色彩は人々を魅了し続けています。

 

藍のふるさと阿波スマートガイド

 

 吉野川市(旧麻植郡、旧阿波・板野郡の一部)は、江戸時代から明治時代にかけて、藍の一大産地として繁栄しました。江戸時代には、藍性日本一と称された内原村や麻植塚村で、反当りの収穫量が上作で55貫文、辻(平均)で45貫文と、徳島県内でも最高水準の収穫量をあげていました。
 また、明治36(1903)年には、藍の作付け面積がピークを迎え、徳島県内で15,100haの藍畑がありました。その中で、麻植郡に最も多くの藍畑があり、3,247haを占めていました。第2位以下は、板野郡(3,246ha)、美馬郡(2,712ha)、阿波郡(1,879ha)、名西郡(1,807ha)となっています。
 このような土地では、多くの藍商も生まれ、享和3(1803)年の関東売仲間には、阿波屋勘三郎、藍屋五右衛門、石原六郎、須見千次郎などの藍商人がいました。また、徳島市勢見の金毘羅さんの玉垣には、川真田家の屋号(万¬)【カネマン】の印が刻まれています。
 また、明治20年代には、藍商人たちが共同出資し、阿波国共同汽船株式会社や徳島鉄道株式会社が設立されました。川真田家は両会社の設立に携わり、社長も務めました。交通の発達により人と物との移動が盛んになり、鴨島駅前では商店街が形成され、商業の発展につながりました。のちに藍商たちは、藍で蓄積された資本を基に製糸業や蚕種業に転換し、さらなる産業経済の発展に貢献しました。   
 川真田家の本カネマン藍屋敷跡地は、その後、麻植協同病院となり、現在は県内最大級の吉野川市アリーナ、複合施設である吉野川市民プラザとなり、中心市街地におけるにぎわい交流拠点施設として利用されております。

 

 ~山川町諏訪の藍屋敷~

 麻植郡(現在の吉野川市)は、江戸時代から明治時代にかけて大藍作地帯で、反当たり収量は県内で最高水準を誇りました。吉野川市山川町の吉野川にほど近い位置に豪農の住宅が残ります。阿波藍の生産量が最盛期となった明治期に建てられた藍屋敷で、主屋を中心に周囲を藍生産のための寝床などの附属施設で囲み、南側に通門(とおりもん)を構えています。吉野川の洪水対策として西側に長大な寝床を配置し、敷地内の建物の地盤を1mほど高くしています。
 県内でも最大規模の15間(約30m)の寝床をもっています。2階建てで、太めの木を柱・梁に用いており、重量がかかっても崩れ落ちないよう力強い構造になっています。豪壮な屋敷の見事さからは、阿波の繁栄を支えた藍師・藍商人の活躍ぶりをうかがい知ることができます。

諏訪の藍屋敷

 

 ~工藤家住宅を中心とした藍関連文化財群~

 西麻植地区の工藤家は、藍師兼藍商人として活躍しました。風情ある藍屋敷の佇まいからは往時の隆盛を感じることができます。明治36年(1903)、大阪で開催された第5回内国勧業博覧会に藍玉を出品した工藤虎吉は、一等賞に輝き金杯を授与されました。
 工藤家の近くにある西麻植駅は、工藤源助や工藤虎吉(鷹助の父)が費用の大半を負担して開設したものです。工藤鷹助は、西麻植駅の利用者が減少し、廃駅の危機に瀕すると、その存続のために、大衆の憩いの場となる施設の計画を立案しました。そして、所有地2万坪を提供し、昭和6年(1931)に江川遊園地(昭和44年吉野川遊園地に改称、平成23年閉園)を創設しました。また、西麻植八幡神社の本殿玉垣には工藤源助、工藤虎吉、工藤和喜太、麻植松太郎などの藍商人や、日本郵船の社長を務めた近藤廉平などの名が見られます。さらに、吉野川市の有形文化財に指定されている西麻植八幡神社の備前焼の狛犬や太鼓橋、両部鳥居も地元の有力な藍商人から寄進されたものです。その他、奉納石碑や御神燈などにも地元の藍商人や、東京計器の創設者である和田嘉衡などの名が見え、工藤家をはじめとする藍師・藍商人がこの地域の発展に大きく貢献していることが分かります。

工藤家住宅西麻植八幡神社

 

 ~阿波おどり~

 阿波藍の販売で莫大な富を得た藍商人は、徳島の花柳界での型破りな豪遊でお座敷芸として踊られていた阿波踊りを洗練した踊りにし、また、藍商人の大坂市場への進出は上方文化の交流を促し、阿波おどりのリズムに影響を与えたと言われています。

 阿波おどりは徳島の歴史と風土が育んだ郷土芸能です。

阿波踊り

 

 ~川島の浜の地蔵~

 川島字城山の岩の鼻展望台の下西側の吉野川に面した麓、川島の浜(川湊)に立つ、川島の浜の地蔵である。
 吉野川流域に点在する台座が高い地蔵は、暴れ川の洪水遺産であり、中流部の低平地に多く集まっており、土地が低く被害が大きかったと思われる場所ほど台座が高くなっている。台座が高い地蔵は、洪水から地蔵尊の像を守ろうとする先人たちの信仰心によって生まれたが、それだけではなく、身近な地蔵に供花・供物を捧げ祀ることにより、毎日の暮らしの中で洪水の恐ろしさを忘れることなく、水防への心構えと水の危険性を子々孫々に伝承してきた無形の民俗文化でもある。
 川島の浜の地蔵は周辺の地面の高さから基礎部分を含めて台座高が2m67cmあり、吉野川流域の台座が高い地蔵のなかでは第3位である。殿様巡視の際、台座が余りにも高すぎるため一つを外してしまったという伝説が残っている。
 吉野川に溺死した人々の冥福を祈って供養のため、天保14年(1843)4月に建立され、以来、川湊に出入りする船の安全を見守ってきた。川島の浜は、吉野川が湾曲しているため、水が出る度に上流から被災者の亡骸が流れついたと伝えられている。川遊びをする子どもの事故も多かったが、「浜の地蔵」として親しまれて人々の信仰を集めるようになってからは、付近の水難事故はなくなったと伝えられている。
 古くから、毎年8月24日の縁日には、ムシロを敷き百万遍の数珠を操り地蔵をお祀りしており、遠近の人々が参詣するので夜市も立ち、灯籠流しも行われる盛況で、大戦中こそ夜市は中断のやむなきに至ったが、数珠繰りと灯籠流しは中断することなく、毎年盛大に行われ、時には浪曲の余興や花火の催しさえあるほどで、昭和50年(1975)代頃からは尺玉や二尺玉と呼ばれる県内でも最大級の花火が打ち上げられるようになり、地方の一名物となっていた。(花火大会は2004年を最後に終了した。)
 台座には、三界萬霊(過・現・未の関係者の霊を祀る碑という意味、供養塔と同じ)と題して、銘文が刻まれている。
 また、台座には願主として、後藤田、阿部、中村、川村、大島姓など、川島の有力な藍師・藍商だった姓と同じものが刻まれており、川島の浜は川島の藍師が徳島の藍市に藍玉を運ぶため船に積み込みをしていた地で、吉野川の川湊として栄えていたことから、藍玉を運ぶ船の安全を願い設置されたとも考えられている。
 堤防とダムが造られ、洪水が以前のように度々起こらなくなった現代でも、8月24日には地蔵をお祀りしている。

川島の浜の地蔵

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