新たに4つの文化財を吉野川市指定文化財に指定しました

公開日 2021年03月30日

吉野川市教育委員会は、令和3年3月23日付で、新たに4つの文化財を吉野川市指定文化財に指定しました。

吉野川市有形文化財(歴史資料) 阿波手漉き和紙万国博覧会及び内国勧業博覧会出展関連資料

2021(令和3)年3月23日指定 吉野川市山川町川東141(一般財団法人阿波和紙伝統産業会館) 個人

阿波手漉き和紙万国博覧会及び内国勧業博覧会賞状

和紙手漉き和紙万国博覧会及び内国勧業博覧会賞牌

阿波手漉き和紙万国博覧会及び内国勧業博覧会賞牌裏面

雁皮紙箱

雁皮紙

    阿波手漉き和紙が万国博覧会(シカゴ・明治26年(1893)、パリ・明治33年(1900))、内国勧業博覧会(第3回・明治23年(1890)、第4回・明治28年(1895)、第5回・明治36年(1903))に出展された際の賞状、賞牌(メダル)と雁皮紙である。

 明治政府が正式に万国博覧会に参加したのは、1873(明治6)年に開催されたウイーン万博であり、日本的で優れた工芸品を中心に出展するために、全国から優れた工芸品が集められた。

 原田家に現存している万国博覧会、内国勧業博覧会の賞状、賞牌と雁皮紙から、麻植郡川田村で製作された阿波手漉き和紙が日本的で優れた工芸品として高く評価されていたことを窺い知ることができる。
【シカゴ万国博覧会賞状・賞牌】
 1893(明治26)年にアメリカ合衆国イリノイ州シカゴ市で開催されたシカゴ万国博覧会出展者である原田虎蔵氏・原田宇八氏へ主催者から贈られた賞状と賞牌(メダル)、シカゴ万国博覧会女性管理委員会から贈られた賞状と賞牌、日本政府から贈られた受賞紀念牌である。賞状から宇八氏は和紙を、虎蔵氏は複写紙(雁皮紙)を出展したことが読み取れる。現存している賞牌は、主催者から宇八氏に贈られた賞牌と、日本政府から贈られた受賞紀念牌のみである。
 また、シカゴ万博では女性管理委員会が組織され、計画の段階から運営まで完全に女性により催された女性館と呼ばれる展示館が設けられており、その女性委員会から宇八氏に栄誉賞の賞状と賞牌が贈られている。
【パリ万国博覧会賞状・賞牌】
 1900(明治33)年にフランスの首都パリで開催されたパリ万国博覧会の出展者である原田虎蔵氏、原田宇八氏へ主催者から贈られた賞状と賞牌(メダル)である。賞状から虎蔵氏は銀メダル、宇八氏は銅メダルが授与されたことが読み取れる。現存している賞牌は宇八氏への銅メダルのみである。
【第3回内国勧業博覧会賞状・賞牌】
 1890(明治23)年に東京で開催された第3回内国勧業博覧会の出展者である原田虎蔵氏へ主催者から贈られた褒状と副賞の賞牌(メダル)である。
【第4回内国勧業博覧会賞状・賞牌・手漉き四色雁皮紙】
 1895(明治28)年に京都で開催された第4回内国勧業博覧会の出展者である原田虎蔵氏へ主催者から贈られた進歩三等の褒賞證と賞牌(メダル)、「有功」と刻印された賞牌である。「有功」と刻印された賞牌については、褒状が存在しないため受賞者が不明。しかし、虎蔵氏は進歩三等を受賞していることから、宇八氏が受賞したものであると推定される。
 四色雁皮紙は第4回内国勧業博覧会と記載された木箱に収納されている。木箱の下の部分が切断されているため確証はないが、第4回内国勧業博覧会(1895(明治28)年)に出品されたものであると考えてよいと思われる。手漉き和紙の歴史を語る上で、非常に重要な文物であり、後世に残すべき文化遺産であると考えられる。
【第5回内国勧業博覧会賞状・賞牌】
 1903(明治36)年に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会の出展者である原田虎蔵氏へ主催者から贈られた三等賞牌の授与証と賞牌(メダル)、原田宇八氏へ贈られた褒状である。褒状については賞牌は現存していない。

吉野川市有形文化財(古文書) 須見家藍大市賞牌版

2021(令和3)年3月23日指定 吉野川市鴨島町敷地  個人

須見家藍大市賞牌版左側

須見家藍大市賞牌版右側

 敷地地区の藍師・藍商人として活躍した須見家に、徳島城下で開かれた藍大市から、優れた藍玉(蒅)を出品した証として贈られた賞牌板(金看板)(安政3年(1856)〈江戸時代後期〉~明治29年(1896))である。木製の賞牌板に、瑞一(日本随一【江戸後期】、日本瑞一【明治】)、准一、天上の3等級の文字や、取引相場(金拾銭に付、拾参匁(もんめ)換など)、荷主・売主に「徳兵衛、須見德平、須見千次郎、須見忠次郎」、買主に「森六郎、三木與吉郎、坂東安一などの徳島の藍商人、大阪藍會社、大阪仲買、東京売組合」、藍仲買に「新居庄平など」、須見家の屋号「∧角」(やまかく)、商標「泰平親玉」(たいへいおやだま)、金龍玉(きんりゅうだま)、良藍親玉(りょうあいおやだま)が墨書き、または刻印され、金色に文字が着色されている。
 徳島藩の第10代藩主蜂須賀重喜が主導した「宝暦・明和の改革」の経済政策として始まった「藍大市」を契機に阿波の藍が大きく成長した。
 17世紀終わりから18世紀初めには阿波の藍の価格は、江戸や大坂の問屋によって決定されていた。しかし、それでは、阿波の藍商人の利益が少なく、藩財政は改善されないため、藩は、享保18年(1733)に藍方御用場を設け、葉藍の専売制を開始し、藩が藍作人から葉藍を買い上げ、買い上げた葉藍を藍師に払い下げ、藍作人と藍師の双方から葉藍取引税を徴収し、葉藍や藍玉を勝手に市場へ出すことを禁止した。また、藍玉の需要が増すにしたがい、藍商以外の者までもが藍玉販売に従事しだしたため、宝暦4年(1754)に新興藍師層を排除するために「玉師株」を設定し、藍商以外の者の藍玉販売を禁止して専売制を強化した。
 藩による税の取り立てと支配が厳しくなっていくことに反発して、宝暦6年(1756)には、藍作人を中心とする専売制に反対する五社宮一揆が勃発した。こうした騒動は藩に大きな打撃を与え、宝暦10年(1760)に藍方役所を廃止し、葉藍取引税や玉師株を撤廃して一揆側の製造・販売の自由化といった要望を受け入れ、新興藍師層は急速な成長を遂げ、大坂市場へ進出していった。
 その後、大坂藍問屋や仲買による価格操作と買い叩きにより、藍玉価格は下落し、大坂市場に参加した藍師の経営の圧迫だけでなく、藍作の停滞と藍作人の困窮化を招いたため、藩は明和3年(1766)に藍方役所を再興し、大坂商人資本を排除するため、従来大坂で行われていた藍玉取引を徳島城下で行うこととし、翌年に藍場浜で藍大市を開いた。
 藍大市は、大坂、江戸、京都をはじめとする諸国の問屋や仲買人が年に1度、11月9日~16日の約1週間集結し、手板法で鑑定された阿波の藍染料の中から投票によって新年度の最優良品と相場基準を決める品評会であり取引の場であった。手板法では、少量の蒅を数滴の水で練り、このときの手触りで蒅の善し悪しや性格を知り、蒅を練って出た藍汁を、和紙(手板紙)に押捺して色の濃度などを評価した。鑑定結果は瑞一(随一)、准一、天上の3等級に選定され、入選した藍商には賞牌板が贈られ、最大の名誉であった。藍師たちはその賞牌板を、自宅の玄関などの人目につき易いところに掲げて名誉とした。

吉野川市有形民俗文化財 阿波人形浄瑠璃人形頭及び阿波源之丞座関連資料

2021(令和3)年3月23日指定 吉野川市鴨島町鴨島252-1(吉野川市民プラザ) 吉野川市

阿波人形浄瑠璃人形頭及び阿波源之丞座関連資料

深見父子・拍子木・床本

床本・通し本

 阿波源之丞座(げんのじょうざ)、深見巴龍(はりょう)・小巴龍(こはりょう)父子が阿波人形浄瑠璃の上演に用いた、人形頭(初代天狗久・天狗弁作)・人形本体・衣装・見台・丸本・床本・鼓・拍子木と興業ポスターである。
 若い頃から浄瑠璃に夢中であった深見定一(さだいち)氏(鴨島町飯尾)は、県下義太夫名人の一人として知られていた近所に住む高橋巴龍(本名嘉平)に弟子入り、第一の門弟として二代目巴龍を襲名した。阿波の伝統芸能である人形浄瑠璃の衰退を憂いていた定一氏は、せめて一座でも人形座を残したいとの思いから、昭和13年(1938)、廃業した三好郡の笹山金太夫一座を買取り、これを記念して鴨島の菊遊座(現在の吉野川市民プラザ東隣)で5日間の興行を座主として取り仕切りした。その後も木偶(でこ)を買い求め、座名も「本家阿波源之丞座」と改め、昭和21年(1946)には、わずか16歳の子息利實(としざね)氏(小巴龍)が父に代わり座主となり、昭和23・24年(1948・49)には一座を率いて「四国路春の巡業」を行うなど県内外で活動している。昭和25年(1950)の天皇来県の際には徳島市の歌舞伎座での人形浄瑠璃公演に協力し、副知事から感謝状が授与された。父子2代で立ち上げ、引き継いだ阿波源之丞座であるが、昭和31年(1956)の大阪産経会館ホールでの興行を最後に一座としての活動は終了した。
 初代天狗久は本名吉岡久吉(1858~1943年)。国府町和田に天狗屋という工房を構え、昭和18年(1943)に86歳で亡くなるまで彫り続けた木偶は1,000を超えるといわれており、宇野千代の小説『人形師天狗屋久吉』で広く知られている。
 天狗弁は本名近藤弁吉(1873~1969年)。初代天狗久の甥で弟子。国府町矢野に工房を構えた。大正13年(1924)から昭和3年(1928)まで大阪の文楽座の座付き人形師となる。昭和29年(1954)、徳島県教育委員会から文化功労者として表彰された。
【大丸目】「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」の和藤内(わとうない) 初代天狗久作 大正5年(1916)8月
 頭は大丸目と呼ばれるもので、目尻が丸くなっており、敵役に使われる。丸目は強さを表すために顔を橙色に塗るが、身分のある敵役は白く塗り白面ともいう。眉の上下、左右のにらみ、つむり目、口の開閉などの仕掛けを仕込む。昭和25年(1950)に天皇が来県した際に、天覧を賜った木偶人形である。
【鼻むけ】「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」の鷺坂伴内(さぎさかばんない) 初代天狗久作 明治42年(1909)6月

 「チャリ」と呼ばれる滑稽役の頭で、鼻が上にくるりとひっくり返り、笑いをとるので「鼻むけ頭」ともいう。鷺坂伴内は吉良上野介の側用人。この頭の内部には「徳嶋縣名東郡國府町和田 天狗屋久吉之作 世界一 明治四十二年六月」の墨書銘がある。「世界一」は天狗久50歳の前後にしばしば使った冠銘であるが、端役とはいえ会心の作であったのであろう。
【娘】「新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)」のお染 天狗弁作 昭和35年(1960)秋
 若い未婚女性の頭は「娘」と言い、髷や衣装を変えることで時代物の姫や世話物の娘を使い分ける。この頭は町娘。
【えびす】えべっさん 初代天狗久作 大正15年(1926)冬
【えびす】えべっさん 初代天狗久作 明治38年(1905)3月 奉天占領日
 阿波では人形浄瑠璃芝居の中入りによく「えびす舞」が上演される。舞台に置かれた船から釣り糸を垂れ、大きな鯛を吊り上げて観客の拍手を受ける。豊漁の神様であるえびすの人気は高い。 正月に三番叟と共に家々に福を届ける門付けにも用いられる。
【千歳】千歳(せんざい) 年代不明 喉木・芯串にワダ天狗久の焼印
【猿】猿 年代不明 喉木・芯串にワダ天狗久の焼印
 三番叟とは、能の「翁」をもととするもので、天下泰平、五穀豊穣、千秋万歳を寿ぐおめでたい儀式曲として、阿波では人形浄瑠璃芝居の開演前には必ず式舞として三番叟を舞わす。千歳(一番叟)の舞、翁(二番叟)の舞、三番叟の舞と質の違った三つの舞を相次いで行う。
 猿については、能の前身が猿楽だったこともあり、猿の三番叟が行われていた。
【床本】浄瑠璃・義太夫の太夫が語る高座を「床」と称することから、床で使用する本を「ゆかぼん」という。この床本は巴龍氏・小巴龍氏が書き写したもの。二人のレパートリーの広さがわかる。
【通し本(丸本)】浄瑠璃本のうち、作品の全段が記してあるものを通し本という。「絵本太功記」通し本は昭和17年(1942)1月10日に深見巴龍氏が筆記したもの。
【見台、鼓、拍子木、小箱】深見巴龍、子巴龍親子が使い込んできた大切な上演道具である。
【阿波源之丞座(あわげんのじょうざ)公演ポスター】阿波源之丞座が近畿徳島県人会の後援で昭和31年(1956)3月に大阪梅田の産経会館ホールで行った人形浄瑠璃の公演ポスター。県下一流の太夫・三味線・人形遣いを動員して上演したこの公演は、昼の部1,600人、夜の部1,500人の大入りであった。残念ながらこの舞台を最後に阿波源之丞座は一座としての活動を引退することになる。深見巴龍氏も「傾城阿波の鳴門」を語り、小巴龍氏は桐竹雛之介の名で「巡礼お鶴」と「太功記の初菊」を遣った。ポスター右上の演目、昼の部の2番目に「傾城阿波の鳴門」「深見巴龍」の記載がある。
【第14回かもじままつりのポスター】昭和59年(1984)11月に開催された、第14回かもじままつりのポスター。ポスター上半分の写真に人形権太(大丸目)(深見定一氏所蔵)が採用されている。第14回では鴨島中央公民館で芸能大会が開催されていた他、展示会、人権の夕べ、体育イベントなどが開催されていた。
 かもじままつりは、昭和46年(1971)に第1回が開催され「文化と産業の祭典」と題し、鴨島小学校体育館で文化祭の展示会、鴨島第一中学校体育館で演芸会、鴨島町民体育館で商工物産展、農産物品評会が開催されていた。(昭和48年第3回かもじままつりパンフレットより)

吉野川市有形民俗文化財 川島の浜の地蔵

2021(令和3)年3月23日指定 吉野川市川島町川島210-33 地縁団体

川島の浜の地蔵

 川島字城山の岩の鼻展望台の下西側の吉野川に面した麓、川島の浜(川湊)に立つ、川島の浜の地蔵である。
 吉野川流域に点在する台座が高い地蔵は、暴れ川の洪水遺産であり、中流部の低平地に多く集まっており、土地が低く被害が大きかったと思われる場所ほど台座が高くなっている。台座が高い地蔵は、洪水から地蔵尊の像を守ろうとする先人たちの信仰心によって生まれたが、それだけではなく、身近な地蔵に供花・供物を捧げ祀ることにより、毎日の暮らしの中で洪水の恐ろしさを忘れることなく、水防への心構えと水の危険性を子々孫々に伝承してきた無形の民俗文化でもある。
 川島の浜の地蔵は周辺の地面の高さから基礎部分を含めて台座高が2m67cmあり、吉野川流域の台座が高い地蔵のなかでは第3位である。殿様巡視の際、台座が余りにも高すぎるため一つを外してしまったという伝説が残っている。
 吉野川に溺死した人々の冥福を祈って供養のため、天保14年(1843)4月に建立され、以来、川湊に出入りする船の安全を見守ってきた。川島の浜は、吉野川が湾曲しているため、水が出る度に上流から被災者の亡骸が流れついたと伝えられている。川遊びをする子どもの事故も多かったが、「浜の地蔵」として親しまれて人々の信仰を集めるようになってからは、付近の水難事故はなくなったと伝えられている。
 古くから、毎年8月24日の縁日には、ムシロを敷き百万遍の数珠を操り地蔵をお祀りしており、遠近の人々が参詣するので夜市も立ち、灯籠流しも行われる盛況で、大戦中こそ夜市は中断のやむなきに至ったが、数珠繰りと灯籠流しは中断することなく、毎年盛大に行われ、時には浪曲の余興や花火の催しさえあるほどで、昭和50年(1975)代頃からは尺玉や二尺玉と呼ばれる県内でも最大級の花火が打ち上げられるようになり、地方の一名物となっていた。(花火大会は2004年を最後に終了した。)
 台座には、三界萬霊(過・現・未の関係者の霊を祀る碑という意味、供養塔と同じ)と題して、銘文が刻まれている。
 また、台座には願主として、後藤田、阿部、中村、川村、大島姓など、川島の有力な藍師・藍商だった姓と同じものが刻まれており、川島の浜は川島の藍師が徳島の藍市に藍玉を運ぶため船に積み込みをしていた地で、吉野川の川湊として栄えていたことから、藍玉を運ぶ船の安全を願い設置されたとも考えられている。
 堤防とダムが造られ、洪水が以前のように度々起こらなくなった現代でも、8月24日には地蔵をお祀りしている。

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